著作権について
当ホームページに掲載されている製品名、製品画像等は、各社の登録商標、商標です。
源平合戦は現・株式会社コーエーテクモゲームスの商品です。
 トップメニュー>登場武将一覧トップ>義経と運命を共にした配下たち
 
 

名前をクリックするとプロフィールに飛びます。
・足立遠元 ・岡部忠澄 ・平山季重 ・佐々木定綱 ・佐々木経高 ・佐々木盛綱 ・佐々木高綱
・佐々木義清 ・夜須行宗 ・後藤実基 ・後藤基清 ・金子家忠 ・金子近則  

足立 遠元 (あだち とおもと)
左衛門尉。武蔵の人。代々源氏の家人で、義朝・頼朝に従う。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
82 66 49 33 54 73 36 53
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × × ×      
トップへ戻る
岡部 忠澄 (おかべ ただずみ)
平治の乱に奮戦した源氏古参の郎党。頼朝挙兵にも参陣した。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
46 86 10 51 50 50 20 72
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × × ×      
トップへ戻る
平山 季重 (ひらやま すえしげ)
武蔵の人。一ノ谷の合戦で、熊谷直実と先陣争いを演じた。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
40 85 20 58 60 61 18 73
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × × ×      
トップへ戻る
佐々木 定綱 (ささき さだつな) 1142-1205
■佐々木兄弟を取りまとめた嫡男
 近江源氏である佐々木秀義の嫡男。佐々木太郎定綱という。平治の乱において佐々木秀義は源義朝に従ったため敗死後は立場を失ってしまう。義秀は近江国佐々木庄を出て縁のある奥州藤原氏の下へ行こうとしていた。しかし途中で渋谷重国に見込まれ相模国渋谷庄で20数年を過ごすことになった。一方この定綱は下野国宇都宮庄で頼朝挙兵まで過ごしている(吾妻鏡)。
 1180年以仁王の乱の際、頼朝に危機が迫っていることを大庭景親から知らされた父・秀義は、たまたま訪れていた定綱を使いとして頼朝にこのことを伝えている。頼朝挙兵の際は渋谷重国に加勢を頼む使いとして走るが、洪水のため帰参が遅れてしまい頼朝を不安にさせたこともあった。この時点で兄弟四人が揃っている。山木兼隆の館襲撃では、北条時政の命で兼隆の側近であった堤信遠を攻めている。信遠は武勇に優れていたため苦戦をするがこれを討ち取っている。その後功績により旧領を安堵及び近江、長門、石見、隠岐の守護に任じられている。

、その事を知る。
検非違使佐衛門尉。頼朝に従い功多く、近江守護に任ぜられた。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
53 76 37 42 52 63 31 74
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × × ×      
トップへ戻る
佐々木 経高 (ささき つねたか) ?-1221
■承久の乱で上皇側に付き自害
 近江源氏である佐々木秀義の次男。佐々木次郎経高という。母は宇都宮宗綱の娘で定綱、盛綱、高綱とは母親が異なっている。平治の乱において佐々木秀義は源義朝に従ったため敗死後は立場を失った。義秀は近江国佐々木庄を出て縁のある奥州藤原氏の下へ行こうとしていた。しかし途中で渋谷重国に見込まれ相模国渋谷庄で20数年を過ごすことになった。経高も父に付いて渋谷庄で過ごし、
 
 頼朝挙兵の際、洪水のためが遅れてしまう。山木兼隆の館襲撃では、北条時政の命で兼隆の側近であった堤信遠を攻めた。この経高が放った矢が源氏と平氏の戦いで最初のものと伝えられている。矢を射った後は刀を抜いて戦うも信遠の矢に当たり負傷。信遠は定綱と高綱が討ち取る。

は武勇に優れていたため苦戦をするがこれを討ち取っている。その後功績により旧領を安堵及び近江、長門、石見、隠岐の守護に任じられている。

次郎経高中務丞。定綱の弟。頼朝に従い転戦。承久の乱では上皇についた。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
51 69 45 47 53 67 38 90
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × × ×      
トップへ戻る
佐々木 盛綱 (ささき もりつな) 1151-?
■佐々木兄弟で最も血気盛ん
 近江源氏である佐々木秀義の三男。佐々木三郎盛綱という。平治の乱において佐々木秀義は源義朝に従ったため敗死後は立場を失ってしまう。義秀は近江国佐々木庄を出て縁のある奥州藤原氏の下へ行こうとしていた。しかし途中で渋谷重国に見込まれ相模国渋谷庄で20数年を過ごすことになった。盛綱も父と共に渋谷重国の下で過ごしている。
 1180年頼朝が挙兵した際、他の兄弟と共に馳せ参じた。他の兄弟たちは山木兼隆の配下であった堤信遠を攻めたが、盛綱は頼朝の傍らに控え共に行動している。吾妻鏡ではこの戦の前に、頼朝に呼ばれて「頼みにしている」と言われた一人となっている。
左兵衛尉。高綱の兄。備前児島で平行盛を討ち取った。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
48 82 24 44 70 77 21 83
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × × ×      
トップへ戻る
佐々木 高綱 (ささき たかつな) 1160?-1214
■佐々木兄弟で頼朝に最も愛された人物
 佐々木四郎高綱。近江源氏である佐々木秀義の四男である。源義仲討伐の宇治川の戦いで梶原景季と先陣争いをしたことで広く知られている。源義朝が敗死した際は父、兄弟と共に近江国佐々木庄を追われた。
 1180年頼朝が挙兵した際に他の兄弟と共にこれに合流。山木兼隆の館を襲撃する吾妻鏡では

左衛門尉。宇治川の合戦に、梶原景季とともに先陣を争う。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
44 77 13 41 71 78 20 80
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × × ×      
トップへ戻る
佐々木 義清 (ささき よしきよ) ?-?
■承久の乱で上皇側に付き自害
 近江源氏である佐々木秀義の五男。佐々木五郎義清という。母は渋谷重国の娘。平治の乱において佐々木秀義は源義朝に従ったため敗死後は立場を失った。義秀は近江国佐々木庄を出て縁のある奥州藤原氏の下へ行こうとしていた。しかし途中で渋谷重国に見込まれ相模国渋谷庄で20数年を過ごすことになった。渋谷重国に気に入れられた
 
 頼朝挙兵の際、洪水のためが遅れてしまう。山木兼隆の館襲撃では、北条時政の命で兼隆の側近であった堤信遠を攻めた。この経高が放った矢が源氏と平氏の戦いで最初のものと伝えられている。矢を射った後は刀を抜いて戦うも信遠の矢に当たり負傷。信遠は定綱と高綱が討ち取る。

は武勇に優れていたため苦戦をするがこれを討ち取っている。その後功績により旧領を安堵及び近江、長門、石見、隠岐の守護に任じられている。

次郎経高中務丞。定綱の弟。頼朝に従い転戦。承久の乱では上皇についた。出雲守・壱岐守。定綱の弟。頼朝に与し、伊賀平氏を討伐。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
50 59 24 42 51 74 36 69
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × × ×      
トップへ戻る
夜須 行宗 (やす ゆきむね)
源希義と親交があった。のちに希義の敵蓮池家綱を討つ。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
65 70 35 40 73 57 42 71
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × ×      
トップへ戻る
後藤 実基 (ごとう さねもと)
兵衛尉。平治の乱にも従軍。頼朝が挙兵すると参陣した。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
57 76 31 58 56 67 66 77
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × ×      
トップへ戻る
後藤 基清 (ごどう もときよ)
兵衛尉・左衛門尉・検非違使・屋島の合戦で源氏方として奮戦。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
66 71 32 31 55 69 34 70
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × × ×      
トップへ戻る
金子 家忠 (かねこ いえただ)
義経に従属。屋島の合戦では弟近則とともに奮戦した。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
38 92 29 73 40 70 16 72
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × ×      
トップへ戻る
金子 近則 (かねこ ちかのり)
通称余一。家忠の弟。屋島の合戦に兄とともに義経に従った。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
40 76 32 39 54 54 28 73
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
× × × × ×      
トップへ戻る