■佐々木兄弟を取りまとめた嫡男
近江源氏である佐々木秀義の嫡男。佐々木太郎定綱という。平治の乱において佐々木秀義は源義朝に従ったため敗死後は立場を失ってしまう。義秀は近江国佐々木庄を出て縁のある奥州藤原氏の下へ行こうとしていた。しかし途中で渋谷重国に見込まれ相模国渋谷庄で20数年を過ごすことになった。一方この定綱は下野国宇都宮庄で頼朝挙兵まで過ごしている(吾妻鏡)。
1180年以仁王の乱の際、頼朝に危機が迫っていることを大庭景親から知らされた父・秀義は、たまたま訪れていた定綱を使いとして頼朝にこのことを伝えている。頼朝挙兵の際は渋谷重国に加勢を頼む使いとして走るが、洪水のため帰参が遅れてしまい頼朝を不安にさせたこともあった。この時点で兄弟四人が揃っている。山木兼隆の館襲撃では、北条時政の命で兼隆の側近であった堤信遠を攻めている。信遠は武勇に優れていたため苦戦をするがこれを討ち取っている。その後功績により旧領を安堵及び近江、長門、石見、隠岐の守護に任じられている。
、その事を知る。
検非違使佐衛門尉。頼朝に従い功多く、近江守護に任ぜられた。 |